ファンキー末吉とその仲間達のひとり言
----第145号----
2009/07/05 2:33
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黄家駒の命日
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その日、6月30日はBEYONDのボーカリスト、黄家駒の18回目の命日であったが、
毎年のことながら私はすっかり忘れてしまっていた。
その日に北京で古い友人と酒を飲んでた私にそのことを思い出させてくれたのは、
古くからのBEYONDファンから送られて来たメールであった。
彼女は血液のガンと言われる白血病にかかってしまい、
18回目のその日は病院で迎えたと言う。
「いつの間にか彼より年上になってしまったのね」
と笑っていた彼女である。
どうせならもっとくしゃくしゃのおばあちゃんになってから彼と再会して欲しいものだ。
頃を同じくして嫁からメールが入った。
「仙台から何か届いとるよ」
そう言えばX.Y.Z.→Aの10周年記念10ヶ月連続ライブの6月公演の時、
出待ちしていた仙台のファンの子に
「お手紙お渡ししたんですけど受け取りました?」
と声をかけられた。
即出して帰ってそのまま中国に飛んだので、スタッフが自宅まで届けてくれたというわけだ。
中には手紙と小冊子が入っていた。
手紙を読むと、
「覚えてますか?私は山形でのライブの時に夜行バスに乗る末吉さんをお見送りに行った者です」
とある。
そうそう、その時は上海のコンサートの日取りが土壇場で動いてしまい、
山形→上海→新潟という怒濤の3日間移動をした時だった。
「仙台から末吉さんのドラムを聞きに来たんです」
と彼女は言った。
「愛のチャンピオンのドラムソロを聞いてから、末吉さんのドラム聴きたさにライブに通ってます」
とてつもなくマニアックな話である。
商業路線を爆走していた当時の爆風スランプには珍しく、
黄家駒が死んで次のコンサートからそのバラードのサビの前にドラムソロを入れるということになった。
全然商業主義ではないこんな意見がメンバーから出るのを意外に思いながら、
通常ドラマーだったら誰もが嫌がる「バラードでのドラムソロ」を披露したのは、
そのコンサートツアーの初日である千葉でのこと。
「凄いよ!末吉ぃ!ドラムが泣いてるようだよ」
今はアミューズの社長である畠中さんが私にそう言った。
そしてたまたま見に来ていた私の友人はこうも言った。
「末吉さんだけひとり居る場所が違う」
その言葉が「予言」であったかのように、
その後、私ひとりが別の道を歩み、爆風スランプは活動を休止することとなる。
居場所を見つけるために狂ったようにJazzのセッションをやってた頃である。
ドラムを叩けるならどんなジャンルの音楽でもやった。
そんなある日、黄家駒が私のセッションを見に来てこう言った。
「凄いよ!お前のドラムはほんとに凄い!
毎月やってんのか?来月もまた見に来るから」
その言葉が彼と最後に交わした言葉となってしまった。
あれからずーっと、今もドラムを叩いている。
今もまだずーっと、いつも彼が見に来ているような気がしている。
病院の待合室で彼の死を告げられた時、
ドラマーのWingは気が遠くなって私の腕の中に倒れ込んだ。
けけけけ、と笑いながら、うわ言のようにこう言った。
「ヤツは今、とても気持ちのいい世界にいるんだって、
酒飲むよりもセックスするよりも、
もっと気持ちのいい真っ白な世界だってよ、けけけけ・・・」
Jazzのような即興性の高い音楽をやっている時、
何かの偶然によって神がかったプレイをする時がある。
「神が降りて来た」
とミュージシャン達は言う。
頭が一瞬真っ白になり、
自分が叩いているのではなく、何か自動書記のように、
何者かが乗り移ってプレイしているような・・・
その時に見る真っ白な世界に彼がいるんだ。
千葉でのドラムソロはそんな世界で叩いていた。
それを見ていた仙台の彼女もきっとその世界に連れて行かれたのだろう。
「爆風の再結成コンサートでは是非あの曲をやって下さい」
彼女は確かそう言った。
「みんなに一応提案はしておくよ」
結局はどちらかと言うとそんなマイナーな曲は演奏されることはなかったが、
彼女自身も母親が病気になってしまい、結局そのコンサートを見に来ることは出来なかった。
そしてその後自分自身も病気となりライブに足を運ぶことはなくなった。
彼女の手紙は続く・・・
久しぶりのライブ。
末吉さんにどうしても読んで欲しい文章がある。
とある舞台公演でパンフレットに挟まれていた小冊子、
その脚本家が書いたというとある女性の物語。
その女性の言う一言がどうしても末吉さんを連想させてしまう・・・
彼女の手紙を読み終わってから、
私は続けてその小冊子を読んだ。
そして居ても立ってもいられなくなって、その脚本家に連絡を取った。
彼の劇団は7月8日から19日まで江古田ストアハウス
http://www.storehouse.ne.jp
というところで公演をやるというので必ず見に行くと伝えた。
その文章を執筆したご本人の許可を得てここにご紹介したいと思う。
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文章で描く劇団員の肖像画
第1回〜メトロの幕開けを告げる歌姫〜「ダリンのこと」
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『メトロポリス・プロジェクト』が始まって、はや5年が過ぎた。
Vol.1の上演の時から、ずっと客入れの曲は同じ曲が流れている。
アルバム『Na Caoirigh in Gabhla』に収録されている『Aquarius』という曲だ。
歌っているのは林田里織。
我々は彼女をダリンと呼んでいる。
最初は林田を音読みして.リンダ、リンダと言っていた。
だが、彼女はある日、
「ミュージシャンって言葉をひっくり返して言うじゃない、
メシのことをシーメとかさ、女の子のことをナオンって言うじゃない。
だから 、リンダっておかしいと思うんだよね」
と言い出した。
「だから、今日からリンダをひっくり返してダリンって呼んでくんないかな」
漢字で害くと『打鈴』と書くという。
突っ込みどころがありすぎて、誰も相手にしなかった。
わかつた、わかったと、みんな普通にダリンのことをダリンと呼ぶようになった。
というわけでダリンはダリンになった。
やがて、ダリンはじょじ伊東という男とバンドを組んだ。
バンド名はもちろん『ダリンとじょじ伊東』。
時々、忘れた頃にライブをやるバンドだった。
私はゲール語で歌を歌いたいんだ。
ダリンがいつ、こんなことを言い出したのか覚えていないが、
ひどく暑い日だったことだけは覚えている。
いつかの夏だった。
「アイルランドの曲が好きだったの。
一番好きなのはね、フェア・グランド・アトラクションっていうので、
だいたい自分の好きな曲を並べていったら全部アイルランドの曲だったの。
アイルランドの曲ぱっか。みんなゲ一ル語なの」
「ゲール語?」
「じんのさんだって聞いたことないでしょ、ゲ一ル語なんて」
「ないね・・ゲール語ってなに?って感じだもの」
「ケルト言語の一つなんだけどね。私もね、よくわかんなかったんだけど、調べたの」
ダリンは言った。
「そしたらね、ゲール語って今ではもうぼとんど話されることのない言葉で、
元々はスコットランドで使われていたらしいんだけど、
1746年にイングランドとの戦争に敗れて、
キルト着用、バグパイプの演奏と一緒にゲール語で話すことを禁止されたんだって。
だから、スコットランド諸島と西海岸、グラスゴーっていうところを中心に、
今ではもう5万人くらいしか話すことができないらしいの。
しかも、例えば、ゲール語をお父さんが話すことができたとしても、
お母さんが知らなかったら、家族の中の話にゲール語が出てくることはないから、
子供は当然.ゲール語なんて知らないってことになっちゃって、
どんどん今、ゲール語を話す人がいなくなっちゃってるらしいの」
絶滅していく言葉。
それがゲール語だった。
そして、今、ダリンはその消えつつある言葉を憶えなければならないことになった。
「でも、やるしかないからさ、
それをやらないと先に進めないんだから、
私、それをやらないと、
自分の好きな歌、歌えないんだからって、
そう思ったらもうやってやるよって」
そして、冒険へと旅立っていった。
その冒険の報告をしに来た時には年を越していた。
これは、私がまだ入形を作るためにマンションを借りていた頃、
屋根裏の三角の部屋でダリンと茶を飲みながら話したことだ。
私はこれを、書いて残しておかなければならない。
「じんのさんだから言うけどね」
ダリンはいつも私に話をする時、必ずそう前置きしてから話を始めた。
それは秘密にしておいて欲しいという意味ではない。
だいたいにおいて、ダリンは何を言っているかわからないが、
慣れてくると言わんとしている事はなんとなく理解できるようになる。
言葉をあまりコミュニケーションの道具として使わない人だった。
だから、本当の意味で
「じんのさんだから言うけど」
とダリンに言われたのは、後にも先にも一度だけだった。
その話はまたあとで話す。
「最初はね、じょじとライブをやったんだよね、
1年半くらい前かな。東中野の小さなライブハウスで・・・」
ダリンは話し始めたが、
ここで書かれているように整然と話したわけではないし、
私は私で自分の記憶で書いている。
二人の会話はこんなふうにスムーズには進んだわけではない。
「それでね、その本番で、私、初めて歌っている時に雑念が入ったの。
お客さんがガーッと襲ってくるっていうか、
とにかく歌以外のことを歌っている時に思ったの。
そんなの生まれて初めてだった。
だから歌っている最中に『ダウト!』って叫んだの」
ダウトォ!
ダリンはその時の気持ちを再現して見せたかったのか、
拳を勢いよく宙にあげて叫んだ。
「ダウト!ってなに?」
「ん?意味はよくわかんないけど、ダウトォ!って感じだったのよ」
ダウトの意味は私にはわからなかったが、
ダリンの言う「ダウト!」の気持ちはわかった気がした。
そう、不思議なことにダリンは
どんなに間違った言葉、意味不明の言葉を使ったとしても、
その時の気持ちを正確に人に伝えることができる人だった。
「とにかくね、いやだーって思ったの。
なにか間違ってる一って。
もうそのライブ自体はね、最悪。
自分でも『わかりました、最低です。ごめんね一、来てくれたみんな!』って思ったの。
でも、やっぱり見てくれた人の中には初めて見てくれた人もいて
『よかった』って言ってくれる人もいたんだけど、
でも、白分がダメだと思ったらダメなのよ。
だって、私、生まれて初めて人に意見を求めたもん。
この私が。
だってそれまでは『歌』ってさ、歌って終わったら、それまででしょ。
それが『歌』ってもんじゃない。
だから終わった後で人の意見とか聞くのって意味ないって思ってたの。
でもね、その時は聞いたの。
さんざんみんなが言うわけよ。
それがさあ、全部当たってるんだよね。
そうなの。だって、ダメだったんだから。
わかるでしょ、じんのさん、
一つしか取り柄がなくて、
ただ一つ愛しているものがあって、
その一つがダメで、愛せない時、どんなにつらいか。
どんなに哀しいか。どんなに情けないか』
じんのさんだから話すと言ったのはここの部分のことだったんだろう。
「わかるでしょ、じんのさん、
一つしか取り柄がなくて、
ただ一つ愛しているものがあって、
その一つがダメで、愛せない時、どんなにつらいか。
どんなに哀しいか。どんなに情けないか」
「うん、それでどうしたの?」
私は先を続けるよう、促すだけだ。
「その時、朝までぐだぐだして、
結局、私の中になんにもなくなっちゃったわけよ。
でね、そのなんにもなくなっちゃった私に、
じょじょが『まあまあ』って言って、慰めてくれるんだけど、
誰もさあ、そんなふうに歌がダメだって思っている私なんか見たことがないから、
どんな言葉をかけていいのかわからないんだよね。
慰める言葉がなくてそれで結局『寿司おごってやるから』って
朝7時に回転寿司に連れて行かれたの。
それでじょじょが回っている寿司を取ってくれて
『もうダリン、気にすんなよ』って。
でも、おごってくれたわけじゃなくて、割り勘だったんだけどね。
じょじょは回っている寿司を取ってくれただけだったんだけどね。
それでさ、寿司がさ、ず一っと去っていくわけじゃない、目の前から。
その去っていく寿司を見て私、決心したの」
ダリンはそう言い切ってまっすぐに私を見た。
「何を決心したの?朝の回転寿司屋で?」
「去っていく寿司を見てね… 私も行こうって」
「行こうって、どこに?」
「今、こうやって帰って来たから言えることなんだけどね。
あたしがその時思ったのは
『音楽を愛しても罪にならない国に行くんだ』って決心したの」
「音楽を愛しても罪にならない国?日本は そうではないの?」
「うん、私はね、ただ、音楽が好きなの。
歌っているのが好きなの。
それでどうこうしようとか、売れるとか売れないとかね、
すぐそっちに行っちゃうでしょう。
売れないとダメみたいなところがあるでしょう。
売れることを考えないと、お金にすることを考えないと、
その歌っていること自体がダメって思われちゃうじゃない。
でもね、本当はちがうの。
歌っている私がいて、それにはそれ以上の意味なんてないの。
だから、意味なくってもいいよって言ってくれるところに行きたくなったの」
それからダリンは、自分のアパートの荷物を少しつつ友遠の家に運んで行った。
「押入、4分の1貸してって、四人のところに行けば、
押入に入っている物がとりあえずなくなるでしょう。
実家に送れる物はこっそり送るでしょう」
とにかく計画的にできるだけ短期間でダリンは体ひとつにならなければならなかった。
もちろんお金も貯めなけれぱならないから、バイトもしながらの話だ。
彼女の友人達はそんな相談をダリンが持ちかけたとしても、わけを聞かなかった。
どこ行くの?何しに行くの?何の為に?
とか、そんなことは誰も聞かなかった。
「それでね、押入空けてくれて
『帰ってきたら連絡ちょうだいね』
って言われた。
みんなわかってるたんだ。
私が体ひとつでどこかへ行こうとしていることを。
それでインターネットで音楽のサマースクールを検索したの。
いっぱいあって、もうそれだけで嬉しくなっちゃったんだけど、
でも、日本からどうやってそこに通えぱいいのか、なんて書いてないのよ、そこには。
まあ、当たり前なんだけどね。
官公庁でも調べてみたんだけど、ありきたりな留学しかなくて。
私がみんなの押入をちょっとづつ借りているのは、留学するためってのではないんだよね。
行ってみたいの、それで歌を習いたいの、そこで歌ってみたいの。
それって留学?ちがうよね。
そんなの留学って言わないよね。
それをなんていうかわかんないけど、
とにかく私はアイルランドに行きたかったの。
もう行くしかない。行きたい。
でも、アイルランドだよ。
普通に考えて、どうやって行けば行けるんだろうって・・」
普通に考えればダリンが言っていることは無茶苦茶だった。
いくら東中野のライブハウスで失敗しても、
いくらアイルランドの音楽が好きでも、
いきなり、方々の友達の家に荷物を預けて、
誰一人知り合いのいるわけでもない、アイルランドに行って歌を習い、
歌いたいとは言わないものだ。
これを冒険と言わずして何を冒険というのか。
そう、ダリンがやったことは『冒険』だ。
フィクションの中で冒険する話などいくらでもある。
でも実際、こうして『冒険』という言葉に値する行動をとった人の話を聞くのはそうそうあることではない。
まわりにそうそう『冒険』したことのある大人がいるものではない。
『冒険』をしたことのある大人を知っていることすらない。
ダリンはその『冒険』してきた数少ない人だった。
「それでアイルランドにどうやって行ったらいいかわからないから、
とりあえずオランダに行ったわけよ。
オランダにね、前に『ロッキー・ホラー・ショー』に一緒に出てた女の子が住んでるのよ」
ダリンはアマチュァ劇団が上演した『ロッキー・ホラー・ショー』に出たことがあった。
冒頭、お米を投げられる花嫁の役だった。
『ロッキー・ホラー・ショー』の説明を少し。
『ロッキー・ホラー・ショー』というのは元々ロンドンで上演されたミュージカルだ。
初演は1973年のこと。
ロンドンのミュージカルというと、お金のかかった豪華で本格的な歌があり、
ダンスがあり、ショーアップされた物を思い浮かべるかもしれないが、
この『ロッキー・ホラー・ショー』が本当に最初に上演されたのは、
席が63しかない小さな映画館で、
しかも映画が終わったあとの夜10時半からの上演だった。
こじんまりとした場所で、のちのち伝説となり、
数多くの熱狂的なファンを生み出すことになるとは、この時、誰一人思わなかったに違いない。
そこで、6月の19日に初日の幕が開き、7月7目までの上演予定だったが、
思わぬ好評だったために、7月一杯そこでの上演が続いた。
どれくらいこの公演が成功したかといえぱ、
この7月一杯の初演が終わった直後、
63席の劇場からその4倍の広さを持つチェルシー・クラシックシネマに進出、
そして、10月31園にはさらに広い350席のキングスロード・シアターへと移ったくらいだ。
こうして『ロッキー・ホラー・ショー』は
ロンドンのイブニングスタンダード紙により『1973年ベストミュージカル』に選ばれた。
まさにトントン拍子に成功した夢のようなミュージカルだった。
その後も『ロッキー・ホラー・ショー』の快進撃は続く。
翌1974年3月19日にアメリカデビュー。
やがて映画になり『ロッキー・ホラー・ピクチャーショー』として全世界に配給され、
日本でも1975年に公開された。
では『ロッキー・ホラー・ショー』というのはどんなミュージカルなのか?
教会で結婚式を挙げたカップルのブラッドとジャネットは、
恩師に報告しようと車で郊外に向かう。
途中、雷雨で道に迷い近くの屋敷に電話を借りに行くが、
彼等を出迎えたのは怪しいせむし男で、
その屋敷の中ではドクター・フランクの手によってこの世に生み出された、
人造人間ロッキーの誕生を祝う盛大なパーティーが行われていたのだった。
彼等の目の前に黒マントに身を包んだ怪人ドクター・フランクが現れ、
健全なカップルだった二人は
次第にこの屋敷の住人達の持つゴージャスでちょっとエッチな世界の虜になっていく…
話はまあ大したことはない。
そう、こうやって話だけ書くと、
どうしてそんなにこの『ロッキー・ホラー・ショー』が全世界で熱狂的に受け入れられているのか不思議に思われるかもしれないが、
他のミュージカルと決定的に違うのは、
この映画は黙って椅子に座って見ていなくてもいい映画ということだろう。
普通、映画館に行くときちんと膝を揃えて座って、
映画が始まったら、他に見ている人の邪魔にならないように最後まで静かに見ていなければならない。
けれども『ロッキー・ホラー・ショー』は映画が始まったら、
映画に出てくる人達に向かって、かけ声をかけてもいいし、
ダンスが始まったら客席の通路に走り出て、映画の登場人物達と一緒に踊ったりしても構わない。
映画の途中で見ている人達のために映画の中でダンスの振り付けを教えてくれるコーナーもあるので、
特別に振りを憶えていかなくても、ぽんとにその場ですぐに踊れるようになる。
だからみんなダンスのシーンになると、
映画館のステージに上ったり、通路に出たりして画面の入物達と一緒に踊り始めてしまう。
それともう一つ大事なことは、
この映画を見るために持って行かなけれぽならない物がいくつかあるということだ。
お米に新閲紙、ライターやクラッカー。
さっき『ロッキー・ホラー・ショー』の冒頭に結婚式のシーンがあると書いたが、
外国では教会で縞婚式を挙げると、
新郎と新婦が教会から出て来るとき、お祝いにお米を彼等に向かって投げるものだ。
だから、映画の最初の結婚式の場面で見ている人達はみんな、お米を投げるのである。
もちろん、映画館のスクリーンに向かって投げるわけだから、
画面の中の新郎新婦に届くわけはない。
投げたお米はスクリーンに当たるだけだし、
ヘタに一番前の席に座ったりしてしまったら、
後ろの人が投げて来るお米が隆ってきたりもするのだ。
その場にいあわせないと、よくわからないかもしれない。
世の中にはこんなふうにして見てもいい映画があるのだ。
お嫁さんと花婿さんでドライブしていると、雨が降ってくる。
客席で見ているお客さんはこの雨をしのぐために新聞紙を広げる。
客席中が新聞紙だらけになるわけだ。
映画の中の雨に降られる二人が人気のない山道で困っていると、
遠くに屋敷の明かりがぽつりと見える。
その時、お客はみな手に手にライターをつけて、その光を見せてやる。
映画館の客席の中にライターの火が一斉に灯る。
そして、屋敷に入ることができた二人の前にこの映画の本当の主人公ともいうべき、ドクター・フランクが現れる。
ここがクラッカーの鳴らしどころだ。
劇場の客席のあちこちからパン!パン!パン!バン!バン!パン!
劇場中に火薬の匂いがして、短い紙テープが宙を舞うのだ。
『ロッキー・ホラー・シ∋一』は映画であって映画ではないのかもしれない。
だから、本当に普通に映画を見ようと思って来たお客さんは、
この『ロッキー・ホラー・ショー』の楽しみ方を知っているお客さんに驚く。
そもそも映画というのは
始まったら他の人たちの迷惑にならないように、黙って見ていなければならないものだ
と、みんな小さな頃に教わっていたはずなのに、だ。
客は映画に向かってお米を投げたり、通路に出て踊りだしたり、クラッカーを鳴らす。
でも、それが『ロッキー・ホラー・ショー』の正しい見方だ。
そうやってみんなで騒いで見る映画、それが『ロッキー・ホラー・ショー』なのである。
こんな映画は滅多にあるものではない。
だから、みんな『ロッキー・ホラー・ショー』を大事にする。
外国の映画を日本で上映する場合、上映権というのを買わなければならない。
日本で上映してもいいよ、という権利のことだ。
もちろん契約だから、それには期限がある。
今から五年とか十年とか、映画によってまちまちだが、
その期限が切れると上映できなくなるのだ。
映画の広告でよく『リバイバル』と書かれいるが、
上映期限の切れた物をもう一度買いなおして
映画館でまた向こう五年、十年とか上映できるようになったものを『リバイバル』といい、
上映の期限が切れていないけれども、もう一度映画館でロードショー公開する時は『再演』という言葉を使う。
『ロッキー・ホラー・ショー』はもう何度も上映の期限が切れ、
また誰かが上映権を買い、また切れて・・ということを繰り返している。
上映の期限が切れる前はそれこそ、日本全国から『ロッキー・ホラー・ショー』のファンが映画館にやって来て、
最後の上映を見ながら、お米を投げ、通路で踊り、クラッカーを鳴らしてきたのだった。
まだネットもなにもない時代の話だ。
そして、それとは別に、元々が舞台のミュージカルだった『ロッキー・ホラー・ショー』を舞台版のまま上演しているところもあった。
ずいぶん『ロッキー・ホラー・ショー』の話が長くなってしまったが、
その最初にお米を投げられるそのお嫁さん役をダリンはやったことがあった。
映画ではスーザン・サランドンがやっていたジャネットという役だ。
ダリンと知り合ってすぐの頃の話だ。
そのただでさえ騒がしい『ロッキー・ホラー・ショー』をなんと年越しライブでやった事があって、
それを私はダリンに誘われて見に行った。
私はその時、初めて彼女が歌っている姿を見た。
そこには普段、顔を合わているシャイな林田里織とは別人のリンダが歌い、
踊り狂い、シャウトしていた。
ピンクのレオタードを着て両胸に鏡餅を二つ入れていた。
「なんだこれは?」と訊いたら「グラマラスでしょう?」と言っていた。
その数年後に、私が一人芝居の連作シリーズをはじめたとき、
ダリンに一本、絶対にダリンにしかできない、15分のお芝居を書いた。
音楽が好きでバンドやら色々やっていた女の子が、
音楽ではうまくいかず、ついに観念して小さな会社に競職することになる。
そして、その会社の人達が新入社員の彼女を歓迎して、飲みに連れて行ってくれ、
その後の二次会でカラオケボックスに誘われる。
彼女はもう二度と歌を歌うまいと決心していたのだが、
あまりにもその会社の人々が勧めるので、断りきれなくなり、
ついに、自分の一番好きな歌をアカペラで歌うことなる。
それが『ロッキー・ホラー・ショー』の中の一曲『この遣をバラ色に染めよう』だった。
彼女はそれを歌っているうちに、やっぱり自分は歌を歌わなければダメだと気づき、
会社のみんなに
「今日一日、こんな世の中を知らない奴にいろいろと親切にしてくれてどうもありがとう」
とお礼を言う。
「でも・・でも、もしかしたら、明日私は会社に来ないかもしれません…
すみません・・でも、でも・・それでいいんです」
再び彼女は歌い始める。
アカペラのまま歌い上げた彼女は「どうもありがとう!」と叫んでお芝居は終わる。
終わった直後に狛手が来た。
音の大きな、激しい、刺さるような拍手だった。
話を元に戻そう。
ダリンがそうやって貯めたお金はそれでも最終的に40万ほどだった。
40万からまず、オランダまでの飛行機代14万を引くと残りは、26万。
そこから旅行に必要な物を買わなければならない。
「んで買って、変圧器やらなんやら、いろいろ揃えていたら結局、手元には13万しかないの。
13万よ。13万しかなかったら、日本じゃ1ヶ月暮らせないのに、
私はもう行くと決めたから、その13万を持って、オランダへ飛んだの」
ダリンはオランダで日本人が集う焼鳥屋でバイトをしながらまた金を貯め、
3ヶ月後にようやくイギリスにたどり着いた。
「バスに乗ったの。
バスはねヨーロッパ・ユーロラインって、すんこい激安でどこにでも行けるの。
すごい時間かかるんだけどね。
だってロンドンまで行っても6,000円くらいなんだもん。
それでまた飛行機のすっごい安いやつでようやくイギリスまで来たのよ。
でもさあ、こんだけ苦労しても、まだイギリスなんだけどね」
イギリスに入国する時、ダリンが書いた出入国カードに記入漏れがあり、
入国管理官が訊いた。
「なんのためにこの国に入るのか?」
ビジネスか、留学か、観光か、どれかをチェックすればいいだけの項目だ。
しかし、ダリンは記入するのを漏らしたわけではなく、記入できなかったのだ。
「だって、ビジネスでも、留学でも、観光でもないんだもん」
だから、入国管理官に止められて、訊かれたのだ。
入国するすべての人に訊く、いつもの質問だ。
「なんのためにこの国に入るのか?」
彼女は答えた。
「To SING」
歌うために。
そして、ロンドンにたどり着いた時、教会の前にホームレスが並んでいた。
ご飯がもらえるという。
ダリンもその後に続いて、並んで待った。
そして、プレートにご飯をよそってもらって、食べていたら、
隣のホームレスがそのご飯が「まずい」と言って残したのだという。
ダリンは怒って
「こんなにおいしいものをタダでもらって残すとはなにごとだ」
と英語を駆使して説教したらしい。
それでも、そのホームレスが反省する気配がないので、
ダリンは彼が残したものを全部目の前で食ったそうだ。
それをたいらげた後で、
「ぼら、こんなにうまいんだ」
と言ったそうだ。
そういう人だった。
そして、ある時私は、『メトロ』で役者で出て欲しいと言った。
具体的な日程も決まり、チラシを刷るかという時のことだった。
ダリンから電話があった。
「出られそうもない」と言う。
そこで、本当の意昧で「じんのさんだから言うんだけどさ」と言う話が始まった。
「私はガンなんだ」と告げられた。
だから『メトロ』には出られないと。
でも、入院して手術すれぽきっと治るから、
またその時に、その話をしようと。
「絶対に他の人に言わないで」
ダリンは頑なにこの件が他の人に伝わることを拒んだ。
入院した彼女を見舞いに行った。
午後4時、ベッドの周りは本やらCDやらが、とっちらかっていて、
いかにもダリンのベッドという感じだった。
ダリンは私の顔を見るなり「蕎麦が食いたい」と言った。
いっしょにこれから食いに行こうと、上着を羽織った。
勝手に病院を抜げ出していいのか?と、聞いたら、
いいんじゃないの別に、と吐き捨てて先に歩き始めた。
「病院の地下通路を通るのが近道なんだ、
この地下道は遺体が通る地下道だからあんま人がいないんだよ」
蕎麦屋は5時からの営業で準備中の札がかかっていた。
ダリンはその扉を揮し開け「ダメですか?」と直接交渉していた。
一事が万事、そういう人だった。
「ダメです」と言われ、喫茶店で蕎麦屋の開店を待つことになった。
そこまでして蕎麦が食いたかったのか?
食いたかったのだ。
「じんのさんのお茶代、出すからさ」
仕方ないから「じゃあ、蕎麦はおごるよ」と私は言った。
二人でうだうだとどうでもいい話をして、蕎菱屋が開くのを待った。
おかしいと思った。
この時間はなんなんだろうと思った。
こんな時間があるわけがない。
どうしてこんな時間が用意されているんだろう。
ずっとそればかり考えていた。
そして、二人で蕎麦を食った。
病院の地下通路のところまでダリンを送った。
「ここまででいいよ、じゃあね」
その時はそこで別れた。
ダリンに「出て」と言った『メトロ』のVoL 12を彼女は見に来た。
終演後、ロビーでダリンを抱きしめた。
愛しい人がいたら、なるべく抱きしめておくべきだ。
抱きしめた時の記憶を刻みつけておくべきだ。
それができてよかった。
その1ヶ月後。
2004年1月19日、彼女は先に逝った。
彼女の歌う『アクエリアス』聞くと、
我々はまた新しい舞台の幕が開く緊張を覚える。
そして、同時に新しい舞台の幕が開く瞬間に胸を躍らせる。
ダリンの歌声を聞く度に、同じ気持ちになる。
これからもずっとダリンの曲で『メトロ』は始まる。
いつの日か、300話の上演に辿り着いた。
その時も、この曲がかかり、ゆっくりと照明が落ちていき、
暗闇に包まれて、彼女の声だけが、その闇に響くだろう。
そして、物語がまた始まるだろう。
なんのためにこの国に入るのか?
入国管理官は訊いた。
彼女は答えた。
「To SING」
歌うために。