ファンキー末吉とその仲間達のひとり言

----第38号----

2001/03/02 12:50

NHK中国語会話の最後の収録が昨日終わった。
去年から2年間やらせてもらったが、今年で私は卒業である。

思えばこれに出演するのが夢だった。
10年前、中国に入れ込み始めて、
当時誰も相手にしてくれないのでひとりでこれを見て中国語を勉強した。
当時、アシスタントに朱迅と言う可愛い女の子
(後にトゥナイトの風俗レポーターとなって山本晋也監督と夜の街を闊歩する)
が出演していて、
「中国に行けばこんな可愛い娘がいるんだなあ・・・」
と挫けそうになる気持ちを一生懸命励ましながら、
結局それより可愛い嫁と結婚して(ヨイショ!)今に至る。

タテマエ社会の日本の風習に昔からあまり馴染まず、
友達が裏切ったら殺してもいい中国社会(ウソ)があまりに心地よく、
「中国人と結婚して北京に住むぞ!」
と一大決心してからはや10年。
日本に住んでしまった嫁は今や
「何であんな不便なとこ帰らなアカンねん(これ中国語・・・)」
とのたまいつつ我が夢は今だに実現していない。

思えば小さい頃から描いてた夢は少しづつ実現して来た。
レコードを出してプロミュージシャンになること、
自分モデルのドラムスティックが発売されること、
酔っ払って這って帰れるところに自分のバーを持つこと、
印税生活をすること、
本を出すこと、
キャンピングカーを買って、それを商店街の看板にぶつけて多額の賠償金を払うこと(ウソ)
Jazzドラマーとして認められること・・・

そうそう、先月のJazz Lifeの2000年ベストアルバムに、
五星旗のボーダレス・ラブがドラマー部門で9位に選ばれた。
人知れず長く続けてきてよかったと思える小さなエピソードである。

あとまだ実現してない夢と言えば、
アホの二井原と共に世界に出ることであるが、
まあヨーロッパのライセンスも取れたのでこれもぼちぼちであろう。

人間長く続けていれば何とかなるもんである。

さて、この中国語会話、
私にとって一番悩みのタネが服装であった。
教育番組の予算枠では、もちろんスタイリスト等をつけれるわけもなく、
基本的に衣装は自前である。
人間イヤなことは先送りする習性が有るらしく、
いつも月曜日の朝ぎりぎりになって、収録で何を着るかを悩むこととなる。
数年来服など買ったことがなく、
悩んだところで服などは持ってて数着なので、
視聴者から
「あ、ファンキーさんはまた同じ服だ・・・」
と思われないようにただ順番を変えるだけである。
そうやって2年間、100本以上の収録を数着でやり過ごしたが、
結局「ズボンはいつも同じGパンですね」と指摘され、
さらには気が付いてみればずーっと靴は同じスニーカーであった。

将来科学がもっと発達し、
服と言うモノが臭くならないなら、私など一生同じ服で暮らしたい。
めんどくさいので脱ぐのもイヤである。
朝起きたら、そのままの服で仕事に行って、
帰ってきたらそのままの格好で寝たい。

・・・あ、今かてそうか・・・

「あんたまた外で着た服のまま寝て。きーきー!(これ中国語)」
二日酔いの朝にはキツい寝覚めであるが、
これは厳密に言うと間違いである。
外で着る服で寝ているのではなく、寝る服で外に出ているのである。

だいたい寝覚めてすぐ中国語なのもキツい。
「ほらちゃんと布団をたたみなさい。きーきー!(これ中国語)」
二日酔いの頭でぼーっと、
「そうか・・・たたむと言うのはディエ(die)と言うのか・・・」
と学習する。

最近など子供がちゃんと2ヶ国語を喋るので、子供に発音を正されるのもキツい。
「パパぁ、酢はツー(cu)、ツー(ci)は骨!」
「すまんのう・・・」
5歳のガキに40のオッサンがモノを教わるのも情けない。
自分のガキでなければ張り倒してやりたいぐらいである。
「やかましい!わしゃ日本人じゃい!」
と言い返してやりたいが、こいつらとて日本人でもあるので反論にならん。

NHK中国語会話を2年やらせて頂いて、
これはさぞかしいい復習となって俺の中国語力は・・・と思ってたら、
結局テキストを開いて復習するわけでもなく、
ひたすらスキットのギャグを考えて終わりであった。

収録の合間にはひたすらパソコン開いて別の仕事である。
隔週月曜日を朝10時から夕方まで拘束され、その後は必ずラジオ、
翌日もだいたいラジオであるので、俺の1週間は6日で暮らしていたようなもんである。
合間に仕事を詰め込まねばとてもこなしていけるもんではない。

去年は100本ツアーもやりーの、半分以上外国に行っていたのでまたなおさらである。
八戸でライブ終了後すぐ夜行に飛び乗れば翌朝の収録には間に合うが、
大分から朝いちの飛行機に飛び乗っても10時の入り時間には無理である。
福井から終了後すぐ機材車に飛び乗って車で夜走りで帰って間に合わせたこともあったが、
自分のスケジュールでみなさんに無理言って、
ラジオがあるので早く出させてもらうために
全員が1時間スケジュールを巻いてくれて9時入りとなっても、
その迷惑をかけている当の本人が
物理的に9時には入れなかったりするので恐縮この上ない。

自分がこの番組で中国語を覚えたので、
一応視聴者の先輩として、励みのひとつになってもらおうと、
また基本的に味気ない「学習」と言うものの味付けになればと、
しょーもないギャグを考えてはちりばめたりもする。
聞けば、
「ちょっと喋れるようになったらそれを応用して外に出て使ってみようコーナー」
は、その後全ての語学講座のスタンダードになったと言う。
お役に立てて嬉しい限りである。

さてひとつのレギュラーが終わったら少しだけヒマになる。
日本でのレギュラーは後ラジオが2本半(半は電話で月いちなのでどうでもよい)。
日本に縛り付けられる要素がこうしてひとつひとつなくなっていくと、
考えることはやはり外国へ移住である。
北京がダメならタイである。

タイのChanel[V]のチャートで、私の曲が今2位になっていると聞く。
SPINと言う女の子3人グループだが、
TSUTAYA THAILANDのオーディションを勝ち抜いた後、
TSUTAYA THAILANDの内部抗争に巻き込まれ、
この度グループ名をb'からSPINに変えてデビューした。

彼女達を連れてTSUTAYAを出たS氏は、
TSUTAYAに対抗すべく楽楽と言うビデオレンタルショップのチェーン店を立ち上げた。
タイ語で「Rak」は「愛」と言う意味だと言うからこれは素敵な名前である。
もともとTSUTAYAをタイで60店舗にまでしたのはS氏の手腕によるものなので、
この楽楽の成功は火を見るより明らかである。
「よし、じゃあフランチャイズを受けて1店舗オーナーになれば、
そこで嫁が店長になって生活費を稼ぎ、
俺は日本とタイとで音楽の仕事でその借金を返せばそりゃええ話やなあ・・・」
Jazz-ya北京の安田をS氏に紹介して、どんなもんなのかを聞いてきてもらった。
「いやー、なかなかよく出来たシステムですよ。立ち上げの際には是非協力させて下さい」
安田が言うならそりゃなかなかのもんである。
後は嫁の気持ち次第である。

「これこれこれでこんな話があんねんけど・・・(これ中国語)」
恐る恐るそう聞いてみたのがひと月前。
どの道今は国籍変更の途中なので海外に出れない。
書類は今や入国管理局から法務省にまわり、
受理されれば官報と言うのに名前が載り、晴れて日本のパスポートが取れると言う。

その官報って何じゃい!

役所はわからんことだらけである。
現状で、もし中国のパスポートで出国し、
本人が外国でいるうちに受理されればその時点で日本人となり、
中国人として出たのに日本人として帰るので法律的に非常にややこしくなると言う。
つまり国外には出るなと言うことである。
でも曙って国籍取るのに2年かかったとか言うぞ・・・

まあタイと言う国は全てにおいてWelcomeな国なので
日本と違って中国のパスポートでもめんどくさいと言うこともあるまいが、
どっちでもええから早くはっきりさせて欲しいもんじゃ・・・

かくして私はこうしてタイ移住を虎視眈々と企んでいるわけである。
自分の曲がヒットチャートに入っている国は音楽家としては住みやすい国である。
年をとると寒さが堪えるので暖かい国は申し分ない。
メイドさんが月1万5千円も出せば雇えると言うこの国で住んで、
ツアーやりに来日する日がいつかやってくるかも知れない。
それまでSPINの3人には頑張って売れ続けていて欲しいもんじゃのう・・・

まあそんな夢物語を考えながら、今日は子供を幼稚園に送りに行く。
うちの幼稚園の先生は若くて可愛い先生ばっかりなので楽しい。
「先日もお伝えしましたが、振込口座が郵便貯金に変わりましたので・・・」
別にそんなことは嫁がやるのでふんふん言うだけで何も聞いちゃいない。
若い娘とお話出来るだけで朝から幸せである。
ジジイなので若い娘の空気を少しでも吸っておこうと深呼吸までしたりなんかして・・・
「あ、それから・・・」
帰ろうとしたのを呼び止められたりしたらまたこれが幸せである。
「5月からお仕事の関係で幼稚園をやめられるとのお話はその後どうなりましたか?」
「はあ?」
「あのう、奥さんがおっしゃってた、5月ぐらいから・・・」
「はあ?」
「もし決まりましたら早めに知らせて下さいね」
「はあ・・・・」

よ、嫁は果たして本気でタイ行きを?・・・・
うーむ・・・・

ファンキー末吉


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