ファンキー末吉とその仲間達のひとり言
----第61号----
2002/04/19 (金) 21:40
X.Y.Z.の北京ライブが決定となった。
ワシにとっては非常に意義のあることである。
10年前、爆風を引き連れてライブをやった。
運悪くサザンの数億かけたライブと同じ日。
ヘタ打つとサザンのライブまで中止になるので、事務所のケアーは一切ないどころか、
ワシは日本側からは全くの鼻つまみ者である。
しまいにはステージで煽り過ぎたとか何とかで、
1曲目が終わったら公安が中止命令を出す。
制止なんぞ聞くはずもなく叩き続けるワシ。
PA席に行ってフェーダーを落とさせようとする公安。
そんなことさすかと死守する日本から連れて来たPAエンジニア。
力ずくでしまいにはエンジニアを拉致しようとする公安。
それをさせまいと死守するワシの北京の友人。
ボコボコに彼を殴る蹴る公安。
一部始終は1万2千人の観衆が見ていて、
ペットボトルが投げられて宙を舞う。
公安に対する罵声か、やめないワシ達に対する罵声か、
大騒ぎのままPAエンジニアは拉致され、音量は全て落とされる。
それでもドラム叩くのをやめないワシ。
マイクの音出てないのに歌い続ける中野。
殴打され続けるワシの友人。
飛び交うペットボトルと罵声の中、ライブは終わり、
別室に軟禁されるワシら。
Rock'n Roll Town Beijing
当時は世界で一番ロックが熱かった街がここ、北京である。
恐怖感と言うのは細胞のひとつひとつにまで染み付くもんで、
実はワシ、その現場の工人体育館に行く度に足がすくむし、
北京でロックを二度とやろうなどとは思わず、北京のロッカー達の行く末を傍観していた。
時は流れ、そんな時代は一昔。
ロックが金になると知った政府はロックへのしめつけを緩め、
ロッカー達は「ロック」と言う看板で金儲けに忙しい。
「あの頃は熱かった・・・」
そんなノスタルジックな思いだけがあの北京ロックの行く末だったのか・・・
ついには爆風を活動停止して自分の思いを遂げるんだとしようとも、
時代はいつまでもそんな「生きる化石」に向いているわけではない。
それでも魂はいつもくすぶっていて、それを抱いて深い闇に眠るのか・・・
同じ思いを安田も商売において抱いていた。
末吉に騙されて北京に送られ、
金渡されて「地盤作るまで帰って来んな」でほっとかれ、
作ったJazz-yaは大成功。北京Barブームの火付け役である。
日本料理屋の「飯屋」、寿司バー「Sushi-ya」、焼肉屋の「牛屋」と留まる所を知らない。
飯屋で日本料理を食いながらJazz-yaのカクテルが飲めるし、
Jazz-yaでJazzを聞きながら馬刺しが食べられる。
このおかげで売り上げは飛躍的に向上したが、
「でもこれが本当に俺のやりたかったことなのか」と言う思いが頭から離れない。
「末吉にここ(北京)でドラムを叩かせたい」
そんな夢は今は昔。Jazzバンドを率いては何度か演奏しに来たが、
お上とまっこうからロックで戦って、何十人もいる従業員の生活や、
ヘタすれば自分の命さえ賭けて「負ける勝負」をやる勇気はない。
ところが幸い今年は日中国交正常化30周年記念。
いろんなイベントも目白押しである。
「年寄り同士の交流って言う時代でもないでしょう。ロックで日中友好しましょうよ」
思えばむちゃくちゃな論理である。
しかし考えてみれば今は昔。
政府がロックを恐れていたのはロックにそのパワーがあったからである。
今はどうか?誰もロックなんぞ恐れとりゃせんぞ・・・
大使館主催なら少々のことで当局の手入れは入らない。
政府のイベントなら許可関係やビザでもめることもない。
ここでおとなしくJazzかポップスでもやっとくんか?
「末吉さん、なんか目にモノ見せてやって下さいよ!」
はてさて誰の目にモノ見せるんやら・・・
お前に目にモノ見せるんか?
終わってしまったロック界に見せるんか?
はたまたくすぶっているワシらの魂に見せるんか?
30歳の時に初めて北京ロックと出会って、そして今がある。
爆風だけではなく失ったものも数多くある。
そして得たものもたくさんある。
今やロックのゴーストタウン、北京に史上最強のハードロックバンド、X.Y.Z.がやって来る。
目にモノ見せてやらんかい!
これがロックじゃ!っつうのをみんなに見せつけてやりたい。
ファンキー末吉