ファンキー末吉とその仲間達のひとり言

----第95号----

2004/01/05 22:20


空襲警報と無関係だった村

正月に日本に帰って来て実家の高知で正月休みを満喫している。
高知のUSA、宇佐と言うところにある国民宿舎に家族で投宿していたのじゃが、
これがPHSの電波が届かないのでパソコンがネットにつなげない。
モジュラー付の公衆電話もなければ部屋電話はモジュラー式ではないのでつなげない。
携帯はかろうじて通じるので転送しているMailを呼んである程度は処理するが、
中国語のMailは文字化けするのでチェックのしようがない。
中国は旧正月を祝うので、正月は元旦だけが休日でもうとっくに業務が始まっている。

あきらめよう・・・

パソコンを開かないとワシって何とヒマなことよ・・・
食っては寝、風呂に入っては食い、飽きたら飲み・・・
一ヶ月の間鍛えた筋肉の上に綺麗に霜降りに脂肪がついてオイシソウなワシ・・・

この国民宿舎の売りは露天風呂。
太平洋を見下ろせる山肌にあるこの露天風呂からは、
日の出が水平線から上がるのを見下ろせると言うのだ。
初日の出をまだ拝んでないワシは、
是非7時11分の日の出を見下ろしてみたいと思ってたところ、
宿泊した二日とも酔いつぶれて起きられなかった。

はてさて今日はここをチェックアウトしてどこへ行こうぞね・・・
太平洋の黒潮を見下ろしながら考える。
「そう言えば近くに池の浦と言う漁村があったなあ・・・」
小さい頃この漁村に連れて来られ、しこたま伊勢海老を食った記憶がある。

池の浦・・・宇佐から宇佐大橋を渡り、
この名もない半島
(地元の人に聞いても地図を調べてもこの大きな半島の名前がわからない)
の中央を走る横浪スカイライン(黒潮ライン)を少し行ったところを左側、
つまり太平洋側に降りて行った小さな漁村である。

その昔、宇佐大橋がなかった頃はこの町へは半島の根元の町、須崎まで行って、
そのまま陸と平行して伸びる半島を大回りして戻る形でやって来るか、
もしくは船乗って来るしかなかった。

うちの母は宇佐の網元の娘だったと言う。
44歳になって今日初めて聞いたんだからヒマであると言うことは素晴らしいことである。
池の浦の漁師「I」は真面目で働き者が評判で、
実はうちの母の父はうちの母をそこに嫁がせようとしていたらしい。

母は網元の娘として生まれながら、
何故か猟師町のいわゆる「潮の香り」と言うのが大嫌いで、
「この人と結婚したら一生この嫌な匂いと共に暮らさねばならない」とばかり家を出、
頃は戦時中、疎開して来たワシの父と香川県の坂出と言う町で知り合い、
結婚し、ワシを生み、息子はグレて音楽などをやり、放浪を好み、
今でも飲むと自分の人生がいかに大変だったかをこんこんと語る。

戦時中、この露天風呂から見える水平線の向こうから飛んで来るB29に対して、
高知じゅうに空襲警報が鳴り響いてもこの池の浦の町はまるで無関係であったと言う。
名もない半島の中にぽつんとある電気もない集落・・・
そんなところは米軍にとってはどうでもよい町なのであった。

そんな町で生まれ育った評判のよい漁師「I」は、
いつも船で通う網元の娘との縁談は破談になっても、
町中の娘の嫁ぎ先としては「間違いのない」相手であった。
結局母の知り合いでもある町のいい娘さんをもらい、
今では引退して池の浦の伊勢海老料理屋のいいおじいさんであると言う。

ワシが昔伊勢海老をたらふく食わしてもらったところはどうもここだったらしい。
国民宿舎をチェックアウトしたワシはそのまま池の浦に向かうことにした。

車で横浪スカイラインを行けば15分そこそこで着くのだが、
当時さながら宇佐大橋がなかった時代のルートで行きたいものだ。
国民宿舎で聞くと、
半島の内側の内海、浦ノ内湾(横浪三里)をまだ巡回船の航路があるらしい。
それに乗って池の浦の半島の反対側の村、福良まで行って、
そこから3km歩いて半島を縦断して池の浦に行こうではないか。

小船に揺られること40分、
何もない村、福良の何もない波止場から小さな集落を超え、後は一本道を登る。
母の時代はけもの道だったその道も、今は舗装されていて車も通る。
半島のてっぺんまで歩いて40分足らず、
横浪スカイラインの橋げたをくぐってあとは下り道。
そして同じく40分ほど歩くと池の浦に着く。
若かりし頃の母はよくこうしてこの町にやって来たらしい。

ワシにとっては久しぶりに来た池の浦だが、記憶よりもっと小さい町なのに驚いた。
小学校の分校もある村なのだが、民家の屋根の数は十分数えられる数で、
その数おそらく30はあるまい。
福良の町と比べて集落がぎゅっと密集しており、畑などは一切なく、
商店が一軒、酒屋が一軒、後は民宿と伊勢海老料理屋である。
民家の数に比べて船の数は大小さまざま合わせると倍以上はあり、車の数はもっとある。
典型的な漁村なのであろう。

波止場には釣り人、夏だとホエール・ウォッチングで賑わうのであろう、看板がある。
ワシらは「I」の伊勢海老料理屋に腰を落ち着けた。

「あらぁ、クニちゃん(母の通り名)、久しぶりぃー」
おばちゃんらがわんさか(土佐弁)出てくる。
「いやぁ、さとる君(ワシの通り名)やんかぁ。ちっとも変わらんねぇ」
ウソじゃ!ガキの頃と44歳と変わらんわけない!

名物の伊勢海老料理がこじゃんと(土佐弁)出て来る。けだし絶品!である。
その間にも人がぎっちぃ(土佐弁)出入りし、
ああでもないこうでもないと、ワシにも解読不能に近いディープな土佐弁で喋りまくる。
おじいさんがやって来た。きっとこの人が漁師「I」なのであろう。
母が潮の香りさえ嫌いでなかったら、
ひょっとしたらワシはこの町で生まれ、
漁師になるか、はたまた同じように伊勢海老料理屋をやっていたかも知れん。
パソコン中毒のワシが携帯も通じないこの町で暮らしていけるのか?
もしくはこの町で海と共に暮らしたらこんな人間にはならんか?・・・

人間何が幸せなのかはわからん。
絶品の伊勢海老を食いながらネイティブな土佐弁の世間話を解読しながら聞く。
この町から昔うちの実家がやっていた中華料理屋に働きに来た少年は、
その後大阪に行ってヤクザか何かに関わって死んだと聞く。
そうかぁ・・・
年こそは近かったが、
使用人とそこのお坊ちゃんと言うことで結局あまり意思の疎通がなかったなあ・・・

今回車で送ってくれた親戚「K」は、物心ついた頃からずーっと船に乗っていて、
そのまま結婚もせずに定年退職。今に至るらしい。
「無愛想で子供の扱い方も知らん!」と母は文句を言う。
運転が荒くて子供が酔うのだそうだ。
ずーっと船に乗っていたと言うらしく、ワシは今回初めて会うことになったと記憶しているが、
ワシには母が言うほど無愛想な人には見えなかった。

海で人生のほとんどを過ごした男・・・ここでは彼のような立場を「船を下りた」と言う。
親戚「K」の船に当たるのがドラム、海に当たるのが音楽なら、
幸いながらワシはまだ船を下りてない。
昔は漁師は「板子一枚下は地獄」と言う命がけの職業だったと聞く。
何もドラムやって命落とすこともないやろし(XYZのライブは時々死を覚悟することもあるが)、
相変わらずワシの愚痴を言いながら伊勢海老をつつく母を見る。

普通だったらこの町で生まれていたかも知れないワシ・・・
漁師の網元の血を引き、しかしひょんなことから香川県の中華料理屋の3階で生まれ、
ひょんなことから音楽と言う海原に旅立って漁が終わるまで帰って来ん。
しかも漁場は今は中国やて・・・

運命とはおもしろいもんよのう・・・
また里帰りしたらこの町に来よう。

ファンキー末吉


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